東北関東大震災活動記録
昨日夜11時、やっと普通に携帯が通じるところに戻ってきました。
チームの皆ほとんど寝られないまま交代で運転して、
北茨城での病院支援、災害モード立ち上げ、入院患者70名の避難、域内搬送
という仕事を行いました。
以下活動報告です。
3/12朝
筑波の参集拠点から常磐自動車道を北上。
ところどころ道路に亀裂や段差があり、救急車が揺られました。
携帯電話には時おり三時間前からのメールがまとめて届きます。
北茨城の市役所で災害対策本部に到着報告し、
千葉の君津中央病院の救急医師大谷先生とともに、まだ被災状況が明らかでない
北茨城市立総合病院に向かいました。
行く道のアスファルトはうっすらと砂で覆われ、
路肩に瓦礫が積み上がり、
海辺にはガードレールに車が立て掛けられるように腹を見せ、
ブロック塀や屋根瓦は崩れ、
倒壊した木造住宅も散見されました。
営業しているガソリンスタンドには給油待ちの車が長蛇の列を作っています。
北茨城市立総合病院では院長先生を始め、5名ほどの医師、スタッフが
疲労困憊しながらも患者さんの診療に当たっていました。
北茨城はライフラインが完全に途絶し、電気、ガス、水道、
携帯電話の電波すらも通じないため、
病院は自家発電により白熱灯を照らしています。
病院の旧棟にはおおきな亀裂が入り半壊。
奥には三名の御遺体が布にくるまれていました。
自衛隊が周辺地域を捜索しているとの情報があり、これから多くの重傷者が
この病院に運ばれてくる可能性があるため
病院を災害モードに変えるべく、入り口を一つに絞りトリアージポストを立て
赤、黄、緑ゾーンに分けました。
衛星電話も十分な電波がとらえられず、
周囲の被害状況把握、病院の被害状況報告のため
消防無線から本部へ連絡をとりました。
自衛隊による捜索では周辺地域にあまり重傷者はいないとのことでしたが、
病院のライフラインを確認したところ、
水も入院患者全員を賄う分が二日間ももたないことがわかり、
また自家発電のガソリンも入手困難により底をつく可能性があるため
70人以上の患者さんを避難させることになりました。
僕のチームでまず高萩協同病院へ人工呼吸機のついた患者さんを搬送。
途中高萩協同病院への橋は通行不能となり、
海側を迂回すると地震と津波の爪痕が多く見られました。
高萩協同病院はきれいで新しく、
たくさんの医療スタッフが出迎えてくれて一安心しました。
患者さんのご家族に道案内してもらいながら北茨城市民病院へもどり、
再度車イスの患者さん二名とそのご家族を高萩まで搬送。
帰り道はもう真っ暗になっており、ライフラインの途絶えた真っ暗な空では
月と星だけがここぞとばかりに輝いていました。
病院にはまだ寝台搬送の患者さんが9名残っていたため、
救急車には患者さんとご家族、そして全装備をところ狭しと救急車に乗せました。
病院では真っ暗ななか自家発電のライトで院長先生が診療を続けています。
手元に残ったペットボトル飲料水などは院長先生にお渡しし、
有効に活用していただくことにしました。
23:30
四組目の患者さんを霞ヶ浦医療センターまで搬送して任務終了。
筑波メディカルセンターの災害対策本部が筑波に宿をとってくれていました。
おかげで昨日は体を横にしてホテルで寝られました。
このブログを途中まで書いたところで携帯を握ったまま意識をなくしていました。
本日名古屋医療センターからのDMAT2隊目と合流。
彼らに引き継ぎを行い、帰路につきます。
2隊目は海岸沿いに展開する避難者の医療支援に向かうことになりました。
また活躍してくれることでしょう。
自宅に帰ってからは2隊目の遠隔サポートに努めたいと思います。
多くの犠牲者の方のご冥福をお祈りするとともに、
生き残った方たちが早く健康で安心して暮らせる日常を取り戻せますように。
名古屋市名東区平和が丘一丁目10番地
さいとう整形外科リウマチ科
院長(未) 斉藤 究
http://saito-seikei.jp/
2011.03.13 | コメント(6)
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