先日、患者さんから学徒出陣の時の話を伺いました。
「お国のため」を純粋に信じて、その患者さんと仲間たちは出陣していったそうです。
その際に、初めて対面する看護師の女性達が、それぞれの学生達の前に並び
自分達の黒髪を切って学生達の胸ポケットに差し入れたそうです。
学生たちはその髪と、わずかな恋心を胸に、体に巻いた爆弾の信管を抜き
敵軍の戦車に向かって飛び込んでいったそうです。
また、僕の読んでいるメールマガジンでは終戦の日にこんな話が送られてきました。
命の大切さを考えさせられます(-_-;)
以下引用です。
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大和の後部が白煙を上げているのが私にも分かりました。
なおも攻撃が続けられ、魚雷が的中した時は震度5にも感じられるほど激しく揺れました。
次第に船は傾いていきます。
砲術学校では、戦艦は十五度傾いたら限界と習ってきましたが、二十五度、三十度とどんどん傾いていきます。
それでも、戦闘中は命令がない限り持ち場を離れることはできません。
その時「総員、最上甲板へ」との命令が出ました。
軍には「逃げる」という言葉はありませんが、これが事実上「逃げろ」という意味です。
すでに大和は五十度ほど傾いていましたが、この時初めて、「大和は沈没するのか」と思いました。
それまでは本当に「不沈戦艦」だと思っていたのです。
もう海に飛び込むしかない。
そう思った時、衝撃的な光景を目の当たりにしました。
私が仕えていた少尉が日本刀を抜いたかと思うと、自分の腹を掻っ捌いたのです。
噴き出す鮮血を前に、私は凍り付いてしまいました。
船はますます傾斜がきつくなっていきました。
九十度近く傾いた時、私はようやく海へ飛び込みました。
飛び込んだのも束の間、沈む大和が生み出す渦の中へ巻き込まれてしまいました。
その時、私の頭に過ったのは海軍で教わった「生きるための数々の方策」です。
海軍に入ってからというもの、私たちが教わったのは、ひたすら「生きる」ことでした。
海で溺れた時、どうしても苦しかったら水を飲め。
漂流した時は体力を消耗してしまうから泳いではならない……。
陸軍は違ったのかもしれませんが、
海軍では「お国のために死ね、天皇陛下のために死ね」などと言われたことは一度もありません。
ひたすら「生きること、生き延びること」を教わったのです。
だからこの時も海の渦に巻き込まれた時の対処法を思い返し、実践しました。
しかしどんどん巻き込まれ、あまりの水圧と酸欠で次第に意識が薄れていきます。
その時、ドーンという轟音とともにオレンジ色の閃光が走りました。
戦艦大和が大爆破したのです。
そこで私の記憶はなくなりました。
気づいたら私の体は水面に浮き上がっていました。
幸運にも、爆発の衝撃で水面に押し出されたようです。
しかし、一所懸命泳ぐものの、次第に力尽きてきて、重油まみれの海水を飲み込んでしまいました。
「助けてくれ!」と叫んだと同時に、
なんともいえない恥ずかしさが込み上げてきました。
この期に及んで情けない、誰にも聞かれてなければいいが……。
すると、すぐ後ろに川崎勝己高射長がいらっしゃいました。
「軍人らしく黙って死ね」と怒られるのではないか。
そう思って身構える私に、彼は優しい声で
「落ち着いて、いいか、落ち着くんだ」
と言って、自分がつかまっていた丸太を押し出しました。
そして、なおもこう言ったのです。
「もう大丈夫だ。おまえは若いんだから、頑張って生きろ」
四時間に及ぶ地獄の漂流後、駆逐艦が救助を始めると、
川崎高射長はそれに背を向けて、
大和が沈んだ方向へ泳ぎ出しました。
高射長は大和を空から守る最高責任者でした。
大和を守れなかったという思いから、死を以て責任を取られたのでしょう。
高射長が私にくださったのは、浮きの丸太ではなく、
彼の命そのものだったのです。
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「若者よ、君たちが生きる今日という日は
死んだ戦友たちが生きたかった未来だ」
by 八杉康夫(戦艦大和語り部)
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「魂が震える話」より
00526431s@merumo.ne.jp
戦争を直視せず、66年が経過。
戦後得たものもある半面、失ったものも多い。
今こそ世界のAAA(安心・安全・安定)を構築できるリーダーを切望します。
「Sc丸」の最高総司令官殿はヒトリでも多くの人々を救ってあげて下さい。
救われた一人より。
お久し振りです。
お元気ですか?
開業して3ヶ月。
音楽が聴きたくてうずうずしています。