ぼくもこれまでいろんな怪我をしました。
中学で器械体操部だった時には捻挫や打撲は当たり前。
宙返りの着地で足の親指を骨折したり
鉄棒から落ちて首をひねったり。
高校では、やはり宙返りで右膝の前十字靭帯という
大切な靭帯を断裂して関節鏡の検査をうけました。
大学では前十字靭帯の再建手術を受けたとおもったら
原付で転んで右の鎖骨を折りました。
その時には自分が整形外科医になるとは
全く思っていませんでしたが
面白いもので今ではどっぷり整形外科医として
ケガを治す人になっています。
今日は、メルマガ「人の心に灯をともす」から
ケガをしてなお感謝、のお話です。
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【ありがとうといえば】№1771
石川洋氏の心に響く言葉より…
カンボジア国境に避難している難民の救済に出発する一ヶ月前のことである。
私の不注意で石畳に横転して左手の指を三本折ってしまったのである。
家に帰ってきて入口の障子を明けると、『丸田翁の健康法の話』というパンフレットが置いてあった。
そのパンフレットの一番大切なところは、「治して下さい」とお願いをしてはならない。
「治して下さってありがとうございます」と大声で一時間言っていると、必ず大転換が始まってくる、必ずよくなる、運命も変わる、と言うことであった。
ごはんを食べる時も、寝る時も、起きる時も、「治して下さってありがとうございます」と唱える。
空気も水も太陽も、みんな生かそうとしている。
われわれは生かされるようになっているのだから「ありがとう」とお礼を言わなければならない、と書いてあった。
早速、大声で仏様の前で「治してくださってありがとうございます」と一時間唱えてみた。
すると本当に大転換が始まった。
勿論、折れた骨が、元どおりに治るわけではない。
しかし、先ず、お礼が出て来た。
「左手であってよかった。右手であったらどんなに大変だったろう」
と大感謝がこみ上げてきたのである。
次に足の指を三カ所折ったら、歩くことが出来なかっただろう。
「足でなくて手であってありがとう」と心からお礼を申し上げた。
また、顔であって包帯でぐるぐる巻きにしていたら、人さまにいらぬ心配をおかけする。
そして、家でけがをしなくてよかった。
外の皆さんにご迷惑をかけることになる。
次々、お礼がふえてくるのである。
そして最後に「女房でなくてよかった」「私であってありがとう」と心底からお礼がこみ上げ苦笑してしまった。
そのようにお礼を言っていると、けがの痛さを忘れ、けがをしたことが喜びに変わってくるのである。
又、一ヶ月で治るだろうかという焦りの気持ちがなくなり、私は「丸田翁のおじさんありがとう」とお礼を申し上げた。
このすがすがしい、次元を超えた大きな“ありがとう”に包まれ、感謝の手を合わせている時“ハッとした”。
長い間、曲がらないでいた左手の三本の指の二本が動きだしていたのである。
もう一本の指も曲がりかけているではないか。
「ありがとうといえば
ありがたいものが見えてくる
ありがたいものが見えてくれば
ありがたいあかしがあらわれる」
『ありがとう宣言』勉誠出版
神様にはお願いごとをしてはいけない、という話を読んだことがある。
なぜなら、神様にお願いするということは、神様に対する要求であり、すなわち文句を言っているのと同じことになるからだ、という。
お願いする人は、現状のよいところを見ずに、悪い所をみてそれを直して欲しいという。
よいところを見れば感謝が出てくるが、悪い所を見れば文句が出てくる。
本当は、神様には「ありがとうございます」、という感謝しかないのにそれに気づかない。
病気やケガのとき…
「治して下さってありがとうございます」
ありがとうといえば、ありがたいものが見えてくる。
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